別冊ノベリスタ|ボスニアの欠片・旅のキセキ|ジェキチ美穂





























第1回

祝いのかたち



祖国日本では毎年真っ赤な鼻のトナカイが夜空を駆け巡る頃、我が家では両耳を真っ赤にした息子が家の中に駆け込む姿が見られます。

凍てつく空気の中帰途につく息子の頬はリンゴの様に赤いのですが、その頬にも増して両耳が赤く染まっているのには、また別の理由があります。

両耳が赤いのは、また1つ年を重ねたという祝福のしるし。
老若男女に関わらず、誕生日を迎えた人は周囲の人々から両耳を引っ張られるのがこちらの習慣です。

上に向けて耳を引っ張るのは「これから益々成長するように」と願いを込められているようですが、この習慣で誕生日を祝うボスニアおよび周辺国の人々の背丈が高いのはきっとこの風習の賜物だ、と妙に納得してみたり。

そう考えると、長年身長の低さに悩まされ続けてきた私はもっと早く、成長期に旧ユーゴを訪れるべきだったのか・・・


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さて、暮れも押し迫って産まれた為に本来なら身内のみに囲まれて誕生日を迎えるはずの息子ですが、幸いここデルベンタの学校は12月最終週まで授業があるので、クラスメートからもお祝いの言葉を掛けてもらえます。

とはいえ、20数名のクラスメートをはじめとする沢山のお友達が「スレチャン ロジェンダン!(誕生日おめでとう)」の言葉と共に次々に耳を引っ張る為、息子の小さな耳はみるみるうちに赤く色づいていきます。

皆に誕生日を祝ってもらえると有頂天になっていたのも束の間、下校する頃には「引っ張られすぎて耳が痛い」と泣き言をつぶやく息子。

そんな手荒い祝福から解放された、と安堵するのも束の間、夜には親戚・知人からの来訪を受け、「もう耳をひっぱられるのは嫌だよー!」と、顔は笑っているものの若干逃げ腰の息子ですが、これからも皆に愛されて成長しますように、の願いを込めて毎年恒例の光景を見守っています。



ところで、クリスマスやお正月と子ども関連の出費が多いこの時期、そこに誕生日まで重なると「あら、プレゼントを考えるのが大変でしょ?」と周囲から少なからず同情されますが、実は私達が住むデルベンタにクリスマスがやってくるのは新年を過ぎてから。

ボスニア国内でもデルベンタを含むスルプスカ共和国側には、セルビア正教の信者が多数を占めるのですが、セルビア正教では旧暦(ユリウス暦)で12月25日にあたる1月7日にクリスマスを祝うのです。

ただし、同じボスニア国内でもローマ・カトリック信者は新暦に基づき12月25日にクリスマスを祝いますし、国民の約半数を占めるイスラム教徒にとっては、当然ながら旧暦であれ新暦であれクリスマスに関係ない通常のワーキングディとなります。



同じ国内でありながら、クリスマスを祝う人々がいる一方で、普段となんら変わらぬ日常を送る光景が存在するのは、宗教に関わらずクリスマスを祝うのが国民の恒例行事と化している日本と対照的。

とはいえ、自らは祝う行事ではないけれど、自らの周辺にそれを祝う人々がいれば「おめでとう」の言葉を掛けて相手を祝福する、そういった人々の交流を目の当たりにする度、「祝いのかたち」というのは、自らとは異なった習慣を持つ相手を尊重する気持ちなのだと改めて感じます。









写真は12月のデルベンタの街

ボスニア・ヘルツェゴビナはスルプスカ共和国(Republika Srpska→主にセルビア人が居住)とボスニア連邦(Federacija BiH →主にボシュニャーク人、クロアチア人が居住)、そしてブルチュコ特別区(Brčko distrikt)で構成されています。

私が住むデルベンタ(Derventa)は、その内のスルプスカ共和国内に位置し、隣国・クロアチアとは目と鼻の先。車で数十分ドライブすればクロアチアとボスニアを隔てるサヴァ川の向こうにクロアチアを臨むことができます。

92年に勃発したボスニア内戦の際、ここデルベンタではクロアチア人勢力とセルビア人勢力による戦闘が激しく、セルビア人勢力がデルベンタを制圧するまでにかなりの建物が破壊されました。一説にはスルプスカ共和国内で最も戦闘が激しかった地域の1つといわれています。

99年あたりから外国の援助等により、復興が徐々に進められているとはいえ、内戦が終結して8年が過ぎようとしている現在においても、街の中心にすらかなりの傷跡を間のあたりにすることができます。戦時中デルベンタからはクロアチア人、ムスリム人を中心に多くの市民が難民として連邦や国外へ出ていきましたが、今度は95年以降、現在連邦側に属するボサンスキ・ペトロバツからセルビア系を中心とした難民が多数流入しました。

凍壊地方デルベンタも私がこちらに移り住んだ1998年あたりから怒涛の勢いでアパートや道路の修復が進み、サラエボやベオグラードへ向かう道路沿いに面する知人達の住むボコボコアパートの外壁が、いつの間にやら砲弾の跡が一目では気がつかない程綺麗に塗装されました。(とりあえず道路に面している方のみ)

偶然先日のユーゴ(当時)日刊紙「Blic」に関連の話題が掲載されていたので紹介すると、現在再建されているアパートは64件、1999年末から再建された件数は702件との事。

とはいえ、我が家付近は街の中心とはいえ向かいの家が廃墟だったりしますし、街から一歩出て、戦前クロアチア人の村だった地域なんかはまだまだ復興とは縁遠い状況です。帰還難民の数と復興の度合いと言うのは比例しているようなので、現状では仕方のない事なのでしょうね。

「凍壊地方デルベンタ」(筆者ブログより)