別冊ノベリスタ|ブエノスアイレス物語|相川知子


























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不思議のブエノスアイレス



ブエノスアイレスに到着して何だか薄暗い街という印象はやはり、旧市街にホテルがあったからではないかと思う。もう少しにぎやかな所を求めて、碁盤目になっているから分かりやすいこの街の地図を見て、まっすぐ行けばすぐに歩行者天国である繁華街フロリダ通りに向かおうと言い出したのはグループの中でも年長でしかもボリビアに2年いたから、南米は慣れているという先輩面したM君であった。

しかし、南米慣れが本当かどうかはすぐに分かった。それは、道を歩きながら、すぐ起こった。急に小さなものが投げつげられ、パシャッと音がしてMの背中にあたり塗れた。水がはいっている小さな風船であった。「この野郎!俺を中国人だと思って馬鹿にしているのか!」と怒っていたM氏であり、勝手に中国人と勘違いされたと思ったのも何だかおかしかった。知識で知っていた「カーニバル」を何だかこのとき、実感した瞬間だった。

私達異邦人がブエノスアイレスにやってきたから?そして、地球の反対側に来てしまって、習慣も違うから?それとも、今日は特別だから?回答は一番最後、そう何をしても無礼講がカーニバルの真髄であった。残念ながら、それを深く知らずに、フロリダ通りに出てしまった。

昔、旅行していれば、何でもよく歩いたものである。街は歩けば歩くほどよく分かるとは行ったものであった。しかし、それはブエノスアイレスの本当の姿を知らなかっただけだ。ブエノスアイレスで歩ける範囲なんてほんの一部分にしか限らない。私たちは単に1週間の旅行に来たのでない。「住むかどうか」を探すためにここまで来たのだから。

日本を出るときは36人だった。それが途中で降りていく人がいて、メキシコドミニカへ向かった。そして、サンパウロに着いたとき、半数以上のブラジル組がわかれ、そこからパラグアイボリビアへ向かう人たちも降りて、結局、ブエノスアイレスに到着したのは、私を含めて5人だった。

その顔ぶれはまったく違うものながら、とりあえず、スペイン語ができる、南米慣れしているということから、Mがリーダー格をしていたが、結果的に彼は一年でこの地を去ることになる。

三年間の予定で来てそれぞれの生きる可能性を探るというなんとも不思議なプログラムで来てしまったアルゼンチン。実際この不思議な公的プログラムは数年後終了し、今度はボランティアという名で外交官パスポートで来たって結局は同様な仕事を日系社会でするだけであった。

それでも、このままい続けるのか、そうではないか、の将来のことはいつも念頭にあって、三年間という期間が途方もないほど長い時間に感じられたのも事実であった。しかし、公的なもので来ているのだから、ある程度の制約があるのは当たり前である。年々それがよくわかっていない人が多くて、冷ややかに傍観するしかない私であった。

自分の目的は決まっていた。よかったらそのままここに住みたい。永住するのかどうか、よりもとにかく住み続けたい。そして、できれば夢であった、外国で勉強したいを実現したいと思うのと一方で目の前をこなすことに集中した。

日本から来れば当たり前の機材や物資がなくて、日本からの観念からは不思議なものばかりあるのがまず最初に出会った私の職場であった。普通の農園に入るとか、技術部門ではなくて、しかも首都の日本語と日本文化の総括である機関で三年間勤める、なぜか、大学出て早々の若い女性に「組織を作ってほしい」と要請する機関を運営している日本人移住者の理事達もそうであるが、とにかく、私は目の前に課せられる仕事をとりあえずやろうと思っていた。

当時は日本でもまだまだ発展途上の日本語教育の研修もしたし、外国語学部だから、もともと外国語としての日本語には抵抗がない、アルゼンチンの日本語教育を改善してやろうというぐらい大志を抱いていたかもしれない。その一方で毎日が不思議なことの連続であった。

一番の不思議は事務所のコピー機であった。その下に、電球が一日中点灯していて、ダンボールで囲った中にあったのは、いわば、日本で雛を羽化させるときのような「装置」があったのだ。

何となく、宗教的なまじないにも感じ、しばらく、それが何であるかを質問するのに時間がかかった。事務所に午前中勤務する年配の女性は、一日、筆で何か書いては、一人でやっている。午後は二世の女性がせわしく働いているという全く違う状況だった。しかし、午後の方が話しやすくて思い切ってきいてみた。

「何かのまじない?じゃないよね」

つづく