ノベリスタ|村上春樹「ワタナベが見た窓景」




DSCN0049.JPG和敬塾本館(旧細川侯爵邸)南側園庭から撮影

DSCN0048.JPG和敬塾西館(南側から撮影)DSCN0047.JPG和敬塾正門(目白通りから撮影)DSCN0050.JPG和敬荘(本館東側に位置)
DSCN0054.JPG神田川駒塚橋から水神社を撮影 (胸突坂の右側が芭蕉庵)DSCN0052.JPG胸突坂(下り坂途上左側に芭蕉庵入り口)DSCN0051.JPG胸突坂頂上(左に青氷文庫、奥に和敬塾東寮)



「428号室」

「ノルウェイの森」でワタナベは和敬塾東寮に住む。
だが、村上春樹が入寮していた当時、東寮は存在していない。

1968年(昭和43年)春、村上春樹が入居した部屋は西寮「428号室」である。

当時の西寮は老朽し、数年前に建て替えられ、半年間、村上春樹が実際に過ごした旧西寮「428号室」は存在しない。
だが、内部を撮影した「最後の写真」らしきものが公開されている。

当時、4階の部屋の窓からは、南にタテカンが林立し警視庁機動隊が包囲する早稲田大学校舎群が見え、西隣りには権勢を駆け昇る田中角栄邸が迫っていた。北側林の裏には創価学会の宗教施設が隣接する。

東に芭蕉庵、椿山荘、野間文庫が位置し、南には、氷青文庫、新江戸川公園が隣接、いずれも豊富な樹木に包まれ、真昼でも静謐さが漂う。

夜ともなれば、雑多な森を背景に辺りの闇は一層深くなり、遠く、都心の光は乱舞し、浮遊した。

428号室の窓は、それら一切の現実を音とともに遮断した。

楯の会

今では、緑と静かさに抱擁される「和敬塾」だが、当時、この舞台をめぐる精神世界は騒然かつ混濁していた。

この辺りの生活については、村上自身が書いている。


生まれてこの方一人で暮したのははじめてだったから毎日の生活はとても楽しかった。だいたい夜になると目白の坂を下って早稲田の界隈で飲んだくれる。で、飲むと必ず酔いつぶれる。その頃は酔いつぶれずに飲むなんていう器用なことはできなかった。酔っ払うと誰かがタンカを作って寮まではこんでくれた。タンカを作るには実に便利な時代だった。というのはそこらじゆうにタテカンがあふれていたからである。「日帝粉砕」とか「原潜寄港絶対阻止」なんていう看板を適当に選んでむしりとってきて、そこに酔っ払いを載せて運ぶのである。これはなかなか楽しかった。でも一度だけ目白の坂でタテカンが割れて、石段でいやというほど頭を打ったことがあるハおかげで二、三日頭が痛んだ。

(「引越し」グラフィティー『村上朝日堂』) 


引っ越し当日、はじめて見た「机と鉄のベッド」のおそろしいほどのシンプルさは、その後の周囲の喧騒に満ちた日常的氾濫を予感させるほど不気味だったに違いない。

1979年1月、警視庁機動隊は学生が占拠中の東大安田講堂の封鎖を解除し、同年9月、大隈講堂ならびに第二学生会館を解除した。
翌年11月には、三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地で割腹自殺し、その後、よど号事件が起きる。

「突撃隊」が、三島由紀夫主宰「楯の会」の中枢メンバーであることは定説となっている。「突撃隊」が突然姿を消す時期と「楯の会」結成時は符合する。


退寮

塾構内を「特高部隊」が連日右往左往し、叫喚する毎日。

村上春樹は、入寮からわずか半年で、落ち着かない時代に背を向け、この地からいち早く脱出、逃れるように畑が広がる都立家政に辿り着く。

以降、彼は、現実感を喪失する本格的な旅に出る。


和敬塾本館

和敬塾本館(旧細川侯爵邸)は、細川家第16代細川護立により1936年(昭和11年)に建てられた。1955年(昭和30年)、財団法人和敬塾が前川喜作によって設立された際、細川邸敷地約7000坪および邸宅を購入し、学生寮が建設された。

胸突坂

和敬塾東門から早稲田大学界隈に至る位置にある。名前が示すように、急傾斜の石段となっている。

関口芭蕉庵

松尾芭蕉ゆかりの関口芭蕉庵。神田上水工事に従事した松尾芭蕉が3年間暮らしている。

神田川

東京都区部を東西に流れる全長25.5kmの神田川(神田上水)水源は、武蔵野台地最大の湧水池である井の頭池(三鷹市井の頭)。途中、善福寺池(杉並区善福寺)から流れ出る善福寺川と妙正寺池(杉並区清水)から流れる妙正寺川の二流が合流し、隅田川へとそそぐ。


水神社

神田上水の関口水門の守護神「水神社」。
日本最古の神田上水は徳川家康の命により開かれた。神社の前を流し、すぐ下流の大滝橋あたりに堰を築き、水位を上げて上水を水戸屋敷に入れ、樋(とい)で地下を神田や日本橋方面に流したという。
なお、文京区関口町の「関口」という地名は、現在の大滝橋のあたりに神田上水の堰を設けたことから、その名が起こったといわれている。神田上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれている。