空虚
「引っ越しグラフィティ」によれば、村上春樹が、喧騒の和敬塾を逃げるように練馬の地に立ち去るのは、1968年秋のことだ。
- 目白の寮を追い出されてから練馬の下宿に移った。早稲田の学生課でみつけたいちばん安い部屋である。三畳で四千五百円、敷金・礼金なし、これはもう絶対に安い。敷金・礼金なしなんて他にない。下宿は西武新宿線の都立家政の駅から歩いて十五分くらいの距離にあった。まわりは絵に描いたみたいな大根畑である。東京にもこういうところがあるんだなとつくづく感心した。
しかし、この地も長くは続かず、翌年春には三鷹に転居する。その辺のいきさつが書かれている。
- 都立家政の暗い三畳間で半年暮して、生きているのがつくづく嫌になってきたのでまた引越すことにした。一九六九年の春のことである。
- 今度の住居は三鷹のアパートである。ごみごみとしたところにはもううんざりしたので、郊外に移ることにしたのだ。六畳台所つきで七千五百円(安いなあ)、二階角部屋でまわりは全部原っぱらだから実に日あたりが良い。駅まで遠いことが難といえば難だけど、なにしろ空気はきれいだし、少し足をのばせば武蔵野の雑木林がまだ自然のままに残っているし、すごくハッピーだった。
「ハッピー」というのは充ち足りた幸福観とは当然異なるもので、いわば風に吹かれて空を漂う、「たらたらと生きている」空虚感のようなものだろうか。
- そのころの記憶というと、ブラジャーが空を飛んでたっていうくらいしか覚えてない。ブラジャーは本当に空を飛ぶのか? もちろん飛ばない。風に吹かれて空を漂っていただけである。
- 実際には毎日女の子とデートしたり映画観たりして結構たらたらと生きていたみたいだ。
設定
そして、1973年の「物語」だ。
「僕」は、村上と同じように、三鷹のはずれにあるアパートに住んでいる。大学を卒業し、友人と翻訳事務所を営んでいる。
主な登場人物は、「僕」と「鼠」、ジェイと彼のバー、双子、翻訳事務所の女の子、「鼠」の「女」、直子、「スペースシップ」という名の3フリッパーのピンボールマシンだ。
この設定は、その後の『羊をめぐる冒険』や『ダンス・ダンス・ダンス』でも引き継がれている。
- その年の秋から翌年の春にかけて、週に一度、火曜日の夜に彼女は三鷹のはずれにある僕のアパートを訪れるようになった。彼女は僕の作る簡単な夕食を食べ、灰皿をいっぱいにし、FENのロック番組を大音量で聴きながらセックスをした。水曜の朝に目覚めると雑木林を散歩しながらICUのキャンパスまで歩き、食堂に寄って昼食を食べた。
(『1973年のピンボール』)
「僕」の日常は、雑木林に面したアパートの角部屋を舞台に、架空とリアリティがつらつらと境界を交錯し、「終わり」に向かって静かに進んでいく。
ゴルフボールがグリーン上のホールに吸い込まれていく様子を見たことがあるだろうか。それもスローモーションで。
それは、ピンボールマシンの穴より深く、一度入れば、底に弾かれて飛び出るおそれがない。
「僕」が歩いたゴルフ場跡地は、今なお、陽だまりの中にある。
境界
「僕」が住む部屋には、雑木林に立ち上る以上に陰鬱な閉塞感が縄のように揺らめいて立ち昇っていた。
むしろ「僕」は「風」に吹かれるために、決まった曜日に、決まったフェンスの金網の決まった箇所に足を掛けて飛び越えていったのかもしれない。
- 僕はテニス・シューズをはき、トレーナー・シャツを首に巻いてアパートを出ると、ゴルフ場の金網を乗り越えた。なだらかな起伏を越え、十二番ホールを越え、休憩用のあずまやを越え、林を抜け、僕は歩いた。西の端に広がった林のすきまから芝生に夕陽がこぼれていた。十番ホールの近くにある鉄あれいのような形をしたバンカーの砂の上に双子の残していったらしいコーヒー・クリーム・ビスケットの空箱をみつけた。僕はそれを丸めてポケットに入れ、後ずさりしながら砂地についた三人分の足跡を消した。そして小川にかかった小さな木の橋をわたり、丘を上ったところで双子をみつけた。双子は丘の反対側の斜面につけられた露天のエスカレーターの中段あたりに並んで座り、バックギャモンで遊んでいた。
(『1973年のピンボール』)
金網を乗り越えた先はどんな世界で、何があったのだろう。
窒息しそうなほどの世界を、テニスシューズで軽々と乗り越えていく先に、何があるのだろう。
命が宿る溜まりが共生や希望として光り輝いて見えた何か。
「僕」と登場人物らとの交通は、何かしらの接点と境界が存在している。
いずれそれらはすべて、「僕」を通り過ぎ、たらたらと生ぬるい「風」だったとしてもだ。
12番ホールのグリーン付近。アパートの窓から見えた12番ホールグリーン跡。現在は、ICU高校の裏庭である。
現在、13番ホールと12番ホールの間の小道は舗装されている。奥に見える金網のフェンスは「僕」が住むアパートまで続いている。
14番ホールと12番ホールのフェアーウェイ付近。現在、12番ホールは平坦に整備され、高校の運動場となっている。
奥に見えるフェンスに囲まれたテニスコートは、14番ホール跡地だ。
さて、「僕」は、「テニス・シューズをはき、トレーナー・シャツを首に巻いてアパートを出ると、ゴルフ場の金網を乗り越えたなだらかな起伏を越え、12番ホールを越え、休憩用のあずまやを越え、林を抜け、僕は歩いた。」
12番ホール付近旧ゴルフ場の3番ホールから5番ホール、12番ホールから15番ホールが、国際基督教大学の敷地のまま残された。このうち、12番ホールと13番・14番ホールの一部がICU高校の敷地となっている。
左手には14番ホールがあった。12番ホールに隣接して美しい杉並木道がある。この辺りから樹木の背は一層高くなり、日差しは鈍く、「林」は森のように深くなる。
15番ホールティーラウンド周辺12番ホールを抜け、14番ホールを横切ると15番ホールに辿り着く。
写真は、ティーラウンド付近。この奥に「休憩用のあずまや」があったはずである。
そして、さらにこの奥を進むと、「西の端に広がった林のすきまから芝生に夕陽がこぼれる」のをみる。
休憩用茶店があった付近。「僕」が見た林の隙間に夕日で光る芝生は、この樹木の裏辺りに作られていた15番ホールのグリーンである。
16番ホール、11番ホールは、ゴルフ場のほぼ中央を東西に分断して流れる野川のほとりに飛び地をつくっている。
また、3番、4番、5番のコースは、野川に沿って作られていた。
野川は、武蔵野段丘国分寺崖線に沿って流れる。
ゴルファーたちは、11番で川越のショットを放ち、グリーンでボールを穴に沈めると、この断崖を登らなければならない。
そのため、11番グリーンの上にエスカレータが用意された。
16番11番ホールと15番ホールの境界付近。写真は、西側から15番ホールの方面を撮影したものだ。左手に「あずまや」、右奥に「露天のエスカレーター」があった。
ゴルフ場のコースを確かめてみると、「僕」が、「十番ホールの近くにある鉄あれいのような形をしたバンカー」とは、11番ホールグリーン横に作られたバンカーである。
そして、バンカーの砂地に、「僕」は、「双子」が残したコーヒー・クリーム・ビスケットの空箱をみつけ、ポケットに入れたあと、砂地についた三人分の足跡を消し去った。
「鉄あれいのような形をしたバンカー」付近。写真は、溜まりの一つを写している。ちょうど「鉄あれい」のような形をしていた。
「そして小川にかかった小さな木の橋をわたり、丘を上ったところで双子をみつけた。双子は丘の反対側の斜面につけられた露天のエスカレーターの中段あたりに並んで座り、バックギャモンで遊んでいた。」
3番ホール跡付近野川に沿って作られた16番と11番ホールの一部、3番、4番、5番ホールには、現在、湿地帯が広がり、赤池、ほたる池、かがみ池など、溜まりが存在している。
一帯は、鳥や水生植物のサンクチュアリとして保護地区となっている。
写真の奥に、「僕」が渡った「木の橋」(水木橋と推定される)が見え、その下を野川が流れている。
ここで「僕」は双子を見つけた。「木の橋」を渡ると見晴らしのいい丘になる。振り返ると、断崖のエスカレータが設置されていた場所が見える。
1番ホール跡。現在、旧ゴルフ場は、野川公園として管理されている。写真では、奥に旧クラブハウスが見える。
水木橋奥に11番・16番ホールが見える。
野川は、国分寺を源流に、崖線に沿って、国分寺、小金井、三鷹、世田谷を流れ、やがて多摩川に合流し、太平洋に注ぐ。
246号線野川とほぼ並行して246号線が走っている。
ゴルフ場の各コースは、この246号線と、野川、段丘の断崖によって3つつに切断されていた。
1番、6番から10番ホール、17番・18番ホールはクラブハウス側に位置し、2番、11番、16番ホールは246号線と野川に挟まれ、他のコースは現在のICU敷地内に存在した。