三角地帯
1968年秋、村上春樹は、喧騒の和敬塾を追われるように練馬へと移り住み、半年後、「まわりは絵に描いたみたいな大根畑」の地から、これまた逃れるように、三鷹のアパートに転居する。
そして記述によれば、「一九七三年だか四年だか」に、国分寺駅にほど近い、まさに「絵に描いたような三角地帯」に辿りつく。
「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」(『カンガルー日和』)は、次のように始まる。
- 我々はその土地を「三角地帯」と呼んでいた。それ以外にどう呼べばいいのか僕には見当もつかなかった。だってそれはまったくの、絵に描いたような三角形の土地だったのだ。僕と彼女はそんな土地の上に住んでいた。
分岐点
「三角地帯」は、国分寺崖線の段丘を利用してつくられている。
- 「三角地帯」の両脇には二種類の鉄道線路が走っていた。ひとつは国鉄線で、もうひとつは私鉄線である。その二つの鉄道線はしばらく併走してから、このくさびの先端を分岐点として、まるでひき裂かれるように不自然な角度で北と南に分かれるのだ。
(『カンガルー日和』)
鉄道によって、「三角地帯」は、取り残された離れ島のように、線路上に浮遊する。その先端に、村上春樹が居住した家を隠して大きな樹木が立っている。
現在、数分間に何本かの列車が、中央線(旧国鉄)の上下線と単線の西武国分寺線を走り抜けていく。朝夕のラッシュ時には、その往来と振動は一層激しい。
先端
村上は、一つの場所に落ち着くことがまるで罪悪感であるかのように、居場所を次々と変えてゆく。
- 住み心地・居住性という観点から見れば「三角地帯」は実に無茶苦茶な代物だった。まず騒音がひどかった。それはそうだ。なにしろ二本の鉄道線路にぴったりとはさみこまれているわけだから、うるさくないわけがない。玄関の戸を開けると目の前を電車が走っているし、裏側の窓を開けるとそれはそれでまた別の電車が目の前を走っている。目の前という表現は決して誇張ではない。じつさい乗客と目が合って会釈できるくらい間近に電車は走っていたのだ。
(『カンガルー日和』)
今でも線路にはカンタンに降りることができる。春のストライキの時期、猫を抱いて、日向ぼっこをしたという場所はどの辺りか。
現在、「三角地帯」には住宅が密集している。その突端に、村上春樹が居住したと推測される無人の家がポツンと立っている。時間を止めたようだ。
現在、「三角地帯」の南側はコンクリートで固められている。チーズパウダーのようだ。何より豊富な日差しは変わっていない。
チーズケーキのような貧乏は、ただの暗喩ではない。実態的なカタチを示した地上に浮遊する「三角地帯」だ。
「三角地帯」の後ろに見えるのが「日立中央研究所」、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でのキー・トポスだ。
早稲田、都立家政、三鷹と、虚脱した生ぬるい風は、たらたらと、いつも頭の上に吹かれていた。
- 僕と彼女は「三角地帯」の先端にぽつんと建っている家の中に入り、一時間ばかりそこでぼんやりしていた。そのあいだにずいぶんたくさんの電車が家の両側を通り過ぎていった。
- 結婚して二年目くらいのことだったと思うけれど、僕は半年くらい「主夫=ハウスハズバンド」をやっていたことがある。そのときはなんということもなくごく普通に毎日を送っていたのだが、今になってみるとあの半年は僕の人生の最良の一ページであったような気がする。
(『カンガルー日和』)
軌道
しかし、風の軌道は、この地で、いっそう先鋭化し、凄味を増す。
「僕」たちは、「三角地帯」で、電車音に目覚め、共振し、だが「僕」たちは若く、その地は陽だまりの中で輝いていた。
濁りなく静謐に澄む湖底で、一本の木が揺らめくように毅然として立ち、鋭角状の精神世界が浮遊していた。
職業作家としてのスタートは、もう少し先のことだ。