福生
1970(昭和45)年4月2日、村上龍は佐世保から上京、美大の受験に失敗し、神保町交差点にあった美術学校に入学する。
最初は吉祥寺井の頭公園に隣接するアパートに共同で住んだが、ほどなくして西荻窪に四畳半の部屋を借りる。だが、これもわずか半年で引き払い、同年10月、東京最西部、米軍基地が横たわる福生へ転居する。
村上龍は、72年2月までこの地で暮らすことになる。『限りなく透明に近いブルー』は、18歳から20歳にかけて村上が見た福生の暮らしが下敷きである。
東福生駅近くの米軍ハウス。
どのハウスも庭が広く芝生がある。
当時、横田基地はベトナム戦争への前線補給基地として位置し、福生の街は米兵で溢れた。米軍関係者の居住地区は基地内部だけでは賄えず、外部に拡がり建設ラッシュとなる。その数は2000を超えていた。
外部にある米軍ハウスの多くは芝生の庭がある白い平屋の家だ。そこには、確かにアメリカの生活が存在して、福生の街と溶け合い、人も行き来していた。
昭和50年、サイゴン陥落以降、徐々に米兵の人員も縮小され、冷戦の終わりとともに外部米軍ハウスはアメリカ人から日本人に住人を変え田。
最近では空き家も目立ち、朽ち果てている家もある。
アメリカの生活に触れるには、金網のフェンスで囲まれた基地の内部を覗くしかない。
基地内部の米軍ハウス。
リリー
「あの時、リリーの部屋を出る時、血が溢れる左手だけが生きている感じがした。・・・・・・ずっと僕はわけのわからないものに触れていたのだ・・・」
「ポケットから親指の爪ほどに細かくなったガラスの破片を取り出し、血を拭った。小さな破片はなだらかな窪みを持って明るくなり始めた空を映している。」
「これまでだって、いつだって、僕はこの白っぽい起伏に包まれていたのだ。血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。」
(『限りなく透明に近いブルー』)
これがジャパマー・ハイツ。
リュウが住んでいたハイツはもうない。
真東に横田基地がある。
ハイツの3階から北西を望む。
鳥
「リュウ、あなた変な人よ、可哀相な人だわ、目を閉じても浮かんでくるいろんな事を見ようってしてるんじゃないの? うまく言えないけど本当に心からさ楽しんでたら、その最中に何かを捜したり考えたりしないはずよ、違う?」
「リュウ、ねえ、赤ちゃんみたいに物を見ちゃだめよ。」
「あなたは疲れているだけよ、一晩休めばすぐ直るわ。」
確かに、鳥はシステムとも読める。
「リリー、鳥が見えるかい? 今外を鳥が飛んでいるだろう?」
「俺は知ったんだ、ここはどこだかわかったよ。鳥に一番近いとこなんだ、ここから鳥がきっと見えるはずだよ」
「俺は知ってたんだ、本当はずっと昔から知ってたんだ、やっとわかったよ、鳥だったんだ」
国道16号線から横田基地を見る。
12番ゲート入口。ストリートを横文字の看板が並ぶ。
原色の街
村上龍の原風景は占領軍の街、佐世保にある。
福生がもつ空気感はそれとおなじだ。
横文字の看板に星条旗がはためく。
米兵が闊歩し、街娼や売春婦がたむろし、近寄り腕を組み、それを日本人は息を潜めて眺めている。
1976(昭和51)年4月、村上は『限りなく透明に近いブルー』を発表、群像新人文学賞を受賞し、続けて7月、同作品で第75回芥川賞を手にする。
以来、「鳥」のような批評が湧きかえることになる。
彼の核心は、『限りなく透明に近いブルー』よりむしろ、原題『クリトリスにバターを』にあったはずなのだ。
「福生の米軍基地に近い原色の街。いわゆるハウスを舞台に、日常的にくり返される麻薬とセックスの宴。陶酔を求めてうごめく若者、黒人、女たちの、もろくて哀しいきずな。スキャンダラスにみえる青春の、奥にひそむ深い亀裂を醒めた感性と詩的イメージとでみごとに描く鮮烈な文学。」
参考文献 『昭和文学史』川西政明