別冊ノベリスタ|大久保ゆう・翻訳の世界































― 大久保さんにとっての翻訳のおもしろさってどの辺にあるんですか。

自分が更新されるということ、出会いがあるということでしょうか。

― 更新?

新たな出会いをいただくことで、新たな自分に生まれ変われる、ということですね。

― 出会い?

本があれば、本の向こうにいる人ですよね。

― 読者ですか?

はい、そうですね。まずは原作者ですが。




人と同化しようとするもの、人を代弁しようとするもの、起点文化を吸収しようとするもの、起点文化を押しつけようとするもの、テクストを飲み込もうとするもの、テクストとたわむれようとするもの、テクストを頼ろうとするもの、テクストを語ろうとするもの、テクストを嗚咽とともに吐き出そうとするもの、テクストを奏でようとするもの、人を伝えようとするもの、人をつなげようとするもの、その様々な態度は、すべて翻訳者の<愛>の現れである。

―「柴田元幸と開かれた日本語」



― 読者との出会いにも、原語のまま読んでいる読者と、訳語で読む読者がいますよね。後者はいわば翻訳者が開拓したような読者であったりするわけですが、そういったものって意識されますか。

ええ、かなり意識することになります。というのも、ここ数年、趣味でやっているような翻訳だと、これを読みたいんですけどって持ち込んでくる方の方が多いんですね。この作品をあなたの日本語で読みたいんですけど、って。

たとえば声優の佐々木健さんは、ずっと朗読をされていらっしゃる方なんですが、Le Petit Prince(「星の王子さま)様」をご自分のサイトで朗読配信したいのだけれども、自由に読めるものがなくてということで翻訳のお誘いをいただいたのですね。

ではやってみようかということになって。もちろん元々作品が好きではあったんですが、そこでもう一度新しい出会いがもらえたというか、もう一度作品と向き合う時間がもらえたというか。そういう形で始まる翻訳が、ここ5、6年でしょうか、ずっと多くなっています。

そもそもは、原作者との出会いがあって、それによって自分が生まれ変われるようなところがあったんだけれど、それを継続していくと、二次的に、読者からまた新たな出会いをもらうことができる。

出会わせてもらっているんですね。


― 出会いには発端とか理由とか、ありますよね。

原典やそれが書かれた言語についてよく分かっている人には、少なくとも翻訳の必要性がないわけで、分からない人がいるからこそ、まず翻訳する。

必要でない人には、翻訳ってどうやっても意味がないんですが、ある人たちを考えると、その必要の方向性は常に新しいので、そのたびに毎回新しい気持ちで付き合っていけて、おまけに、自分も成長していけるんじゃないかなと。


― 原作との出会いがあって、訳者として刺激を受けて、読者によって自身が更新される。

順番はちょっと違って、出会いがあって更新されるっていうのが、刺激になるんです。

― 病みつきになる。

はい、病みつきになる刺激ですね。(笑)






― 翻訳がしんどいなあと思うことってあります?

読者の問題と同じところにありますね。

例をあげると、どなたかから、新しい出会いをいただくってことは、コナンドイルを読みたいというより、大久保ゆうの訳で読みたいっていうところにある。


― 読者が最初から訳者との出会いを求めているとき?

ええ、たとえばですが。そのとき、やはり間に人が入っていますから、訳者の痕跡はどうしても消しようがない。

考え方として、間に入っている翻訳者は見えない方がいいというのが在りますよね。確かにそれは一理あるんですけれども、でもそれはどこまでがんばってみても消しようがないものだと。そう考えたときに、ではどう行動すればよいのかというと、解決方法っていうのはたくさんあると思うんですね。

その答えが一つしかないというのはありえないし、何にでも対処できる万能の翻訳法があるわけでもない。そうなると、翻訳者は主体的に選択をするしかないんですね。たくさんのなかから、何か一つを。絶対的に迫られた問題として。

そこで何を選ぶかは、最終的に、読んでくれる人の顔を見て決めることになります。


― 選択の基準は読者だと。

ええ。勿論、その読者が自分である場合もあるんですね。自分が読みたいというときには、自分を基準にしていいんですけれども。

先ほどのケースだと、出会いを与えてくれた人がまずいると。だから、他でもない私からあなたへ心をこめて訳しますってなりまして。そこから、出会いをくれた人に対しては何がいちばんいいのか考えて決めるわけで――その選ぶという瞬間がいちばん難しいんですけれど、選んでしまえば楽になるんですね。


― 選んだら作業はほぼ終わり。

ええ。


― 一方で、読者は一人じゃない。目に見えない最大公約数的な、不特定多数の万人がいるじゃないですか。

万人を基準に、とやってしまうと、やはり文章が崩れちゃうんですね。なんかこう、自分としてはこれでいいんじゃないかという、甘えが出てきてしまう。どうせ、相手の顔は見えないのだから、これでいいのじゃないかという緩みが出てきてしまうんですね。

そもそも原作からはどういうふうにも訳せるわけじゃないですか。どれでもいいよとなると、これでもいいかなとどこかで緩みが生じる。


― 最大公約数的な表現だと、それは詰まらないと。たった一人だけに向けて書くラブレターが胸を打つ。

たったひとりといっても、人間なんだからその人と同じような好みを持つ人は何人かいるはずですからね。結果としてその人たちにも胸を打つものになるかもしれない。場合によっては、その相手がクライアントでもよいわけで、唯ひたすらクライアントのためだけに訳しますってものがいいもののときもある。


― 緩むとどうなるんだろう。

基本的には、文体が見えなくなる、ということなんだと思うんですよね。とはいえ、実在している必要はまったくなくて、僕がよくやっている児童翻訳であれば、想像上の9歳の女の子、とかそういう対象でもいいわけです。

知り合いでもいいし、イメージでもいい。とにかく特定の人を思い浮かべることで、文体がキュッと締まってくるんですね。それはどこかで、読者が見える、ということにつながると思うんです。


― そうなると翻訳者は、ターゲットを決めてかかるという点では、原作者と同じ行為だということになりますね。翻訳もきちっとターゲットを決めなさいと。

そうですね、それは翻訳のひとつの基準でもあると思いますね。


― いい翻訳とはターゲットが決まった訳だということになりますね。

ええ。それが万人にいいとはならないかもしれませんが、その人にとって良いものであるとは言い切れます。その意味では、翻訳家と作家はつながっています。






― 一般に直訳と意訳の図式化がよく持ち出されます。

でもどれが一番いい翻訳、というのはなくて、さっきも言ったようにその時その時、訳す相手とか自分によって、いい翻訳って変わってくるんですね。

直訳でも、たとえば外国語を習いたての人にとっては、直訳文が参考書代わりになる場合ってあるじゃないですか。そういう人にとっては、ある意味で翻訳は使い勝手のよいものになるわけですが、勿論そうじゃない人には向かない。


― あくまでも読者に誠実。

原作と誠実に向き合うことがまず欠かせない作業としてあるんですけれども、その次の段階で、どこの誰に誠実なのか、が問題になります。訳す際、文体をどうしたらよいのか――よく識者の方は、「声」(ヴォイス)という言い方をされるんですけれど、僕は作品の「声」を訊くようにしますね。「その作品がどういうふうに訳されたいのか」っていう。


― その「声」は原作者の声に限らない。

限らないんです。原作がもっている、潜在的な声、ですね。


― つまり潜在的な読者も含まれる。

そうですね、たとえば、これまではしかめっ面で訳されてきたけれど、なんかこう分かりやすく読まれたいっていう声があるんじゃないかと。あるいはこれはジョークとして読まれたいんだとか。そういったものを捕まえて訳す。そこにあるのも一つの「声」なんですね。


― 「声」を捕まえることも、選択につながるのですね。
そうなると、相当、原作を読み込むことが作業として必要になる。

はい、それは大前提ですね。





翻訳空間の状態は、あるときには翻訳者にとって戦略的なものであり、あるときには固化しているがために強制されることもあります。本質的にどの翻訳空間がよく、どの翻訳空間が悪いということはありません。人間に、毎日エネルギーを要求し、周りすべての人間を他者として見つめ続けさせるのは、あまりにも酷ですし、そんなことをしては人間生きていけません。

―「翻訳という<魔法>を考える」





翻訳というのは、誰かになることである。もしくは、誰かの代わりになることである。ひとつのテクストがあって、それが誰かに伝われないという現実がある(正しくは、その現実に気づく)。そこでその現実を変えるため、誰かにそのテクスト伝えるため、自分の身体を使って、もう一度テクストを書きだす―――。

―「Think C×C」







― 翻訳は研究の対象でもありますね。表現行為としては対立する?

学問って大まかに言って2種類あるんです。まず、世界ってなんだろうって考えること。研究って、物事を突き詰めて考えて、何かを分かるようにして人類の英知にしていく行為ですけれども、その一つに世界は何だろうという、自然科学・ナチュラルサイエンスがある。そしてもう一つに、人間て何だろう、自分て何だろうという、人文科学・ヒューマニティーズがある。

僕の場合、やはり後者に惹かれる思いがあって。人間誰でも自分ってなんだろうと考えるじゃないですか、生きていると。で、僕が自分ってなんだろうと考えた時に、その媒介になったのが翻訳だったんですね。

― 世界って何なんだろうと考えるより、自分って何なんだろうと考えた時に、翻訳があった。

そうですね。自分が何なんだろうと考えたときに翻訳があって、そしてその先に、翻訳をしている人って何なんだろう、というのが出てきたんですね。

― 大久保さんにとっての翻訳って何なんだろう。

ん、呼吸している感じなんですよね。でも、なんでこういう息をするのか分からない。自分の中のことって全然分からないじゃないですか。


― 空気みたいなものではないのね。呼吸しないと死んじゃう。

死んじゃいますね。(笑)

― 翻訳を呼吸のように実践し、専門にして研究対象にもし、それによって、何か、物の考え方とか、変わってきたものってありますか。

変わりますね。客観的に物を見るようになりますからね。入口が自分でも、そこから他人に広げていけたわけですし。







― 研究者として翻訳をどう捉えていますか。

これまでの翻訳教育というのは、型の羅列や精神論になってしまっているようなところがあって。みなさんおっしゃるのは、基本的に翻訳っていうものは教えられるものじゃないと。ある種の実技ですからね。

でも、それってどこか違う気がしていて。勿論、研究で何かがわかったからといってすぐ誰でも翻訳できる、ってものじゃないのははっきりしているんです。たとえば、スポーツ科学も、これが分かれば万人が運動出来るっていうものじゃない。でも本質を捕まえれば、うまくステップアップはできる。そういうことだと思うんですね。

研究でそういう本質的なものを見つけられるんじゃないか、というふうには思っていて、たとえば直訳とか意訳とかそういうレベルのことではなくて、先ほど申し上げたような、対象をはっきり決めるとか、自分の言葉として頭のなかをパラフレーズするとか、核になるところを教えることによって、生徒がはっとするようなところはある。

実際、個人指導ですが、何人かにも教えたことがあるんですけれど、やはり型を教えるよりも、訳出するときに「ちょっと日本語で考えてみない?」って問いかけをするだけで、凄く巧くなったりする子とか、いるんですね。

また、自分が誰に向かって語っているとか意識したりするときある? などと、まあ兄弟とかでもいい、姪っ子がいるならその子とかに向かって語ってごらんとか、そういう声をかけるだけで途端に良くなったりするんですね。


― 日本語で考えてみない、っていう問いかけは何をもたらしますか。

何をどう描くかというよりも、文章を書いているとき、ちゃんと自分の言葉になっているのかどうか、ということを本人に気付かせるための問いかけだと思うんですね。気づくだけで、ずいぶん変わって。


― 翻訳というのは、単なる言語の変換じゃなくて、自分を通じて、自分の言葉で、表現することだと。そのとき、自分を表現できる日本語というものを考えてみない? ということ。

そして、誰かに向って表現してみない? ということですね。

僕たちの仕事を振り返ってみると、英語も日本語もできるのに翻訳が全然できない人って、たくさんいるわけじゃないですか。ということはおそらく、外国語ができる能力も、日本語ができる能力も、どっちとも本質的には関係ないんですよね、翻訳には。

ということは、その間に何かがある。その答えは、自分の中から言葉を吐き出すこととか、自分をはっきりさせることとか、そういうところにあるんじゃないのかなと。






― 翻訳の研究は、現在どの辺まで行っているんですか。

今の翻訳研究というのは、どこか、自然科学と人文科学の切れ間があやふやな状態、混沌とした状態でやっているんですね。

その境目ってかなりしっかりしないといけないと僕は思っていて。というのも、自分たちの身体をある種の自然とみて考えるのと、一つの哲学として考えるのとでは全然違うことになるからです。

そこの境界線をはっきりさせようと。


― 自然科学的な要素は翻訳論にどういう形で現れるんですか。

やはり脳の中ですね。翻訳しているとき、脳味噌の中のニューロンがどうなっているのか、といったような。

僕はと言えば、どちらかというと、人文科学の限界の方から立ち入って考えてみようとしていますね。




電子であることは、すべてのものに<ありのまま>であることを突きつける。<裸>であれと強制する。持てるものは何もない、戦うのなら<素手>で戦え。そのとき<本>であるなら、自らの言葉そのもので勝負せよ、となる。

―「Think C×C」

だが私個人にとっては、著作権が自然権だというふにはどうしても思えない。文化というものは個人が所有するものではなく、やはり人々で共有するものなのではないだろうか。

―「同上」


― 執筆家としてもご活躍されていますが、両者の比重って感じてますか?

オリジナルを書く場合は、結構自分に向けて書くことが多いですね。世の中に出していないことが結構あったりして、ヒトの目に触れていないものが、書き散らしているのがいっぱいあるんですけれど、自分のためのものなので、それでいいかなと。


― 書き溜めているものはどういうものが多いのですか。

小説もありますし、評論もあります。また、自分の考えを整理するためのものもありますね。それはメモ書きとして置いておきますけど。


― やはり翻訳者に傾いている。

そうかもしれません。書いた物はあまり出さない。
でもどこかループしていますね、創作と翻訳とは。
人の見方次第かもしれませんが。


― テーマはどの辺にありますか。

だいたいが「子ども」ですね、「子どもの成長」。自分がたくさん本を読んでいたのは子どもの頃なんですね。今になって、どのくらい読むかなってくらい、貪欲に。

最も必要なときにいちばん必要なものっていうのがある。するとやはり、必要なものは、ある部分自由にしておくべきだろうと思っていて。そこから青空文庫での活動にもつながるわけですが。


― 今の時代との関わりをどう見ますか。

子どもにとっては、生きにくい時代だと思いますよ。


― 「世界」と「セカイ」が簡単に接続される中で、<萌え>に興じる。

成長中の子どもって感受性が鋭くて。あの感覚って大人にはない。大人の場合、筋道を立てて、論理的に話そうとするので、そういうところとは別の面白さがあります。


― 翻訳に飽き足らない部分で反動的に書く場合はありますか。

ありますね。


― でもバランスは見事ですよね、翻訳が身体で機能している?

途中もありますし、場を読んだりとかあります。冷静ですね。ちょっと下がって。

実際に会うと柔らかいと言われるんですけれど、ネットで僕の活動だけ聞いている人からすると、本人はとんがっているんじゃないかと思っている人が結構多くて。(笑)




そして、本は青空から地下へゆく。地下へゆくと、人々がその本に触れるのはむずかくなる。図書館の書庫で、古本屋で探そうとしなければ、見つからない。もしくは、探しても見つからないいことがある。手に入れようとしても手に入らないことがある読みたくても読めないこともある。これが出版というシステムにおける<面白うてやがて悲しき本の世界>である。今もたくさんの本が地下に向かっている。

―「Think C×C」








― 青空文庫もとんがっていますよね。

とんがっています。あれはね。ある意味。

やっぱり本を無料にしちゃうとか、そういうフリーの文化っていうのは、どうしてもどこか反体制的なものを抱えざるを得なくて。完全に反体制と言っていいのかわからないんですけれど。

僕もそういう中で翻訳をタダで出したりしていますけど、あの活動をあまり良く思わない人っていらっしゃると思うんですね。

Le Petit Prince(星の王子さま)にしても、あれだけたくさん本が出て経済がにぎわってるのに、その中にタダのものを持ち込むなんて何事かとおっしゃる人は確かにいらっしゃるんですよね。

だから、何かそのとんがった部分は勿論、僕も根本的に持っていると思うんです。


― 青空での作業というのは、まず大久保さんがある作品を日本語に訳す、これを青空のサイトに載せる、そしてフリーで全世界の人間がこれを読めると。

さらに、どう使ってくれてもいいし、どう遊んでくれてもいいですね。それは勝手に朗読するとか、本に仕立てるとか、それは何でもいいんですね。


― でも売ってはいけない?

売ってもいいんです。実際に売ってる人もいます。


― 原作コナン・ドイルあるいはサン=テグジュペリ、大久保ゆう訳で、それを販売者が利益を得て、それを原作者や翻訳者に還元してもしなくてもよい。

はい。


― そのとんがりは凄い。反体制的。(笑)

それは確かに、とてもとんがっていると思うんですよね。あらためて考えると。


― それを承知の上で、どんどん翻訳を量産する大久保ゆうがいる、という構図。

なんかこう、勝手に使われるっていう面の面白さって、やはりあると思うんですよね。1回1回、許可を取らないといけないってしちゃうと、やはり皆さん、引け目があると思うんですけれど、もう自由にしちゃってくださいと言うと、それこそ勝手に色々やってくれるんですね。


― 翻訳したものが勝手に読まれ、勝手に販売されている、その現象を、翻訳家大久保ゆうはどう捉えるべきですかね。

結局は、自分も得してるんですよね。


― どういう部分で?

たとえば最近、iPadって出ましたよね。あそこで、i文庫っていうソフトウェアがあって、それは青空文庫に入っているものをiPadで綺麗に読めるようにするんですけれど、その中に僕の翻訳もいくつか入っていて、ソフトを立ち上げて一覧を見ると、一番上に僕の訳したLe Petit Princeが出てくるんですよね。

別に僕は全然関係してないし、勝手にやってくださっていることの結果なんですけれど、iPadっていう新しいハードの、電子書籍という待望のメディアを見せるソフトで、一番上に表示されてしまうということは、どう考えたって僕にも還ってくるものがある。


― なぜ一番上に表示されるんですか。

それは分からないんです。たぶんその方がそれをウリにしようと思ったんでしょうね。iPadっていうハードウェアで、初めに挿絵入りのLe Petit Princeがパッと出てくると、すごく効果的で印象的ですから。


― トップにくるための条件とは、たとえば、50音順とか、一番読まれているとか。

いろんな要素があるんでしょうね、僕が作ってるわけじゃないんでわかりませんが。ともあれ、パブリシティとか知名度を、僕はタダで上げてもらっていることにもなるわけで。角度を変えれば、宣伝をタダでやってもらっているという感じにもなって。

そうしてみると、おカネをもらっていなくても、還ってくるものが十分余りある。


― 進化していきそうですね。

だといいんですが。僕が青空でやり出した頃は何人かいらしたんですが、残っている人が少なくて。

最初は、こんなふうになるとは考えてなかったので。こんなことになろうとか、こんなふうに使われるとか。(笑)


― 面白くてやっていた?

ええ、だからそこから見返りがあると思ってもみなくて。その意味では、ものすごく予想外で、刺激的ですね。

物事を考えるときには、その対象として特定の言葉があればなおのこと、それにとらわれやすい。翻訳語であるなら、さらにその縛りがきつくなる。
できるだけ言葉を裂いていくこと、可能な限り概念を腑分けしていくこと、内側から外側から、自分から他人から、過去から現在から―私がこの本で行ったのは、ひとつにCにいくつものCをかけていう作業だ。本質を知るための、未来を考えるための。

―「Think C×C」






― 次の展開はどうなりますか。

仕事として、おカネをもらっての翻訳もやりつつ、趣味のものはタダで出していったり、両方やっていくんだろうなと思います。

でも今後は、そういった中でも、複数の人たちで何かを作るというのをやってみたいですね。

今中心なのは、個人作業の翻訳ですけれど、それをきっかけにしたプロジェクトのようなものをちょっとずつやっていければいいなあと。少しずつ形になってはいるんですけどね。


― それは?

Le Petit Princeの翻訳自体が、だれかが朗読したいから翻訳してほしい、というところででてきた副産物みたいなものだったんですね。そもそもその人のためにやったもので、2人で組んで、そのときは1週間に1章ごとだったかな、訳を上げたものを、声優の彼が同じように1週間に1回朗読をするという形で、一緒にやってきたわけです。

そういう形で出来るものがあるんだとしたら、他にももっといろんな人たちと組んで、やっていくことができるだろうと。

また、たとえば、100何年か前に作られた「不思議の国のアリス」のミュージカルの台本があるんですね。これはあまり知られていなくて、何とか復活できないかなあと。綺麗な形で。

部分的には、3月20日に千葉県の四街道市で少年少女合唱団の方々がやろうとしてくださってたんですが、計画停電の影響で延期になりまして。

いずれにしても、翻訳ひとつで成立するようなものじゃなくって、何か複数の人やものが繋がっている、繋がってくるようなものを、今後やっていきたいですね。


― それってループ感!?

ええ、まあ。