別冊ノベリスタ|志賀直哉旧宅を訪ねる










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高畑サロン

ささやき小途を抜けると高畑サロン(右)につながる。

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志賀直哉旧居

高畑サロンを過ぎると志賀直哉旧邸宅が現れる。




囁き小途

西の一の鳥居から東の本殿へと至る春日大社の表参道には、南に向けて、三本の禰宜道が降りている。そのうちのひとつ「下の禰宜道」は本殿に最も近く、二ノ鳥居手前を右に折れる。

別称「ささやき小途」といい、高畑に続く抜け道。社家町として知られた高畑一帯には神官の屋敷があって、彼らは、日々、この途を通って社に赴いた、いわゆる出勤ルート。

小途は、千年以上、人為から隔離された春日山の麓にあり、丁度、牛車が側人を伴って通るのに適した幅で、原生林を縫うように流れている。

途上、大木や蔦に混ざり、馬酔木や竹柏などが生い茂る中、木漏れ日に誘われる。およそ500メートルほど歩けば高畑地区に出る。その入口付近に志賀直哉旧宅はある。

サロン

志賀直哉は、生涯を通じ、26回、居を変えた。

1925年、京都山科から奈良市幸町に移り、4年後、高畑に居いを建設した。自らのデザインで京の数寄屋大工に建てさせたという建物は、数奇屋造りを基本に西洋と中華の様式も採り入れるなど意欲的で、書斎、娯楽室、茶室、食堂、サンルームなどの各部屋からは庭園を眺められ、当時、文壇の巨匠と呼ばれた直哉の邸宅にふさわしい。

直哉は、鎌倉に移り住むまでの10年間、此処を拠点に、『暗夜行路』、『痴情』、『邦子』、『プラトニック・ラブ』の諸作品を書き上げる。その間、旧宅には、文士、画家、文化人が訪れ、『高畑サロン』と呼ばれるようになる。

彼等は、文学論に花を咲かせると、熱を冷ますように邸宅を出、程なく森に消えた。大社に向かって小途を散策し、神官らのようにそぞろ歩き、鳥のように囁いた。

無頼派-神を恐れた男

「如是我聞」は、『新潮』1948年3月号から7月号に発表された太宰治の随想だが、此処で、志賀直哉を痛罵する。同時期の3月から5月に『人間失格』を上梓、その直後の6月に、山崎富栄と玉川上水に入水する。

両者の確執は、太宰が、『津軽』で、当時の文壇「神様」、志賀直哉を揶揄したことに端を発し、これを聞き及んだ直哉が、文学思想上の批判を繰り返したというのが通説だが、真相はそれほど高尚ではない。

ひと頃の文士には二通りの人間しかいない。文壇を支配する者とこれに対峙する者、文壇とは無縁の者。前者の対峙は同根である。

太宰が時の神、志賀に楯突いたのは、単なる腹いせではない。どうしても、同じ穴のむじなと見えてくる。太宰もまた、森の中を散策し、囁き、優雅に、小春日和の生涯を閉じることもできたはずだ。だが、彼は神を恐れた。

「自分は神にさえ,おびえていました。神の愛は信ぜられず,神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは,ただ神の笞を受けるために,うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。地獄は信ぜられても,天国の存在は,どうしても信ぜられなかったのです。」

太宰は、坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに、「無頼派」と位置付けられた太宰。装いの退廃の底に神への畏敬が読み取れる。

坂口安吾「志賀直哉論」

そのまま引用する。

志賀直哉の一生には、生死を賭したアガキや脱出などはない。彼の小説はひとつの我慾を構成して示したものだが、この我慾には哲学がない。彼の文章には、神だの哲学者の名前だのたくさん現われてくるけれども、彼の思惟の根柢に、たゞの一個の人間たる自覚は完全に欠けており、たゞの一個の人間でなしに、志賀直哉であるにすぎなかった。だから神も哲学も、言葉を弄ぶだけであった。

志賀直哉という位置の安定だけが、彼の問題であり、彼の我慾の問題も、そこに至って安定した。然し、彼が修道僧の如く、我慾をめぐって、三思悪闘の如く小説しつゝあった時も、落ちつく先は判りきっており、見せかけに拘らず、彼の思惟の根柢は、志賀直哉という位置の安定にすぎなかったのである。

彼は我慾を示し肯定して見せることによって、安定しているのである。外国には、神父に告白して罪の許しを受ける方法があるが、小説で罪を肯定して安定するという方法はない。こゝに日本の私小説の最大の特色があるのである。

神父に告白して安定する苦悩ならば、まことの人間の苦悩ではない。志賀流の日本の私小説も、それと同じニセ苦悩であった。

だが、小説が、我慾を肯定することによって安定するという呪術的な効能ゆたかな方法であるならば、通俗の世界において、これほど救いをもたらすものは少い。かくて志賀流私小説は、ザンゲ台の代りに宗教的敬虔さをもって用いられることゝなった。その敬虔と神聖は、通俗のシムボルであり、かくて日本の知性は圧しつぶされてしまったのである。

夏目漱石も、その博識にも拘らず、その思惟の根は、わが周囲を肯定し、それを合理化して安定をもとめる以上に深まることが出来なかった。然し、ともかく漱石には、小さな悲しいものながら、脱出の希いはあった。彼の最後の作「明暗」には、悲しい祈りが溢れている。志賀直哉には、一身をかけたかゝる祈りは翳すらもない。

ニセの苦悩や誠意にはあふれているが、まことの祈りは翳だになく、見事な安定を示している志賀流というものは、一家安穏、保身を祈る通俗の世界に、これほど健全な救いをもたらすものはない。この世界にとって、まことの苦悩は、不健全であり、不道徳である。文学は、人間の苦悩によって起ったひとつのオモチャであったが、志賀流以来、健康にして苦悩なきオモチャの分野をひらいたのである。最も苦悩的、神聖敬虔な外貌によって、全然苦悩にふれないという、新発明の健全玩具であった。

この阿呆の健全さが、日本的な保守思想には正統的な健全さと目され、その正統感は、知性高き人々の目すらもくらまし、知性的にそのニセモノを見破り得ても、感性的に否定しきれないような状態をつくっている。太宰の悲劇には、そのような因子もある。

然し、志賀直哉の人間的な貧しさや汚らしさは、「如是我聞」に描かれた通りのものと思えば、先ず、間違いではなかろう。志賀直哉には、文学の問題などはないのである。

「志賀直哉に文学の問題はない」坂口安吾