別冊ノベリスタ|扉野良人・書誌学の世界






































― 文字とのかかわりって、どの辺りからですか。

職業として思ったことはなくて、最初に、詩を書きたいというのはありましたね。

中学くらいの頃、近代詩で、堀内大学や佐藤春夫とか、読み始めて、高校時代くらいから熱心になって読み、それは文庫本で読むのではなく、当時、古本が凄く好きだったんですね。

戦前にあった「豪華本」で、第一書房という革装の本を出す出版社だったんですけれど、そういうのが、たまたまうちにあって、その本の絢爛なところに、好かれていってしまって、だから、ちょっと、人生的なつまずきで詩に入っていったというようなことではないかんじで。だから、中也にはいきませんでした。むしろ中也は、遅れて読みだしたかんじで、反発があって。

最近、辻征夫(つじゆきお)さんっていう詩人が亡くなられたのですが、辻さんの全集を読んでいて、中原中也のことを、白秋とか、堀口とか、近代抒情詩が入口にあって、そこから中也にはいかずに、モダニズム詩の方にいったとおっしゃっていたんですね。

僕も、堀口や、佐藤春夫や、白秋とか、そういったような人たちのあと、文庫本でしたが、新潮文庫の現代詩人全集10巻11巻で、有名無名の詩人がいて、そこで魅かれていったのが、城左門とか、岩佐東一郎とかでした。そこから、春山行夫や村野四郎というようなモダニズムの詩人に通じる人たちでしたね。

そういう人たちは、堀口の門下であったりするわけですが、師弟関係があって、そこからちょっと読んでみようかなというのがあって、すると、読み方としては、たぶん能天気な読み方をしていたのかもしれないけれど、自分に何か、違和感はないかなと。

その時は(高校の自分)、自分で詩を書こうとは思っていなかったし、書こうとしていても、うまく書けなかったり、ノートに誰かのまねをしているような感じでしたが。


― 美術の学校にいきましたね。

父が京都の美大を出ていたりして、美大というのは、それもありかなと割とかんがえていて。大学では、芸術学を専攻していたんですが、展覧会の企画とか、キュレーターとか、映像作家になる人とかいるんですが。

大学で師事したのが平出隆で、現代詩にはそこで出会ったということになりますね。


― 一方で、思想の科学に足を染めてしまう。(笑)

アルバイトでして、充実してたかというと、疑わしい。

編集会議に来ないかと呼ばれまして、当時大久保にあった地下の、ほんとアジトみたいなところに行って、毎月1回、鶴見俊介さんが京都からいらして、黒川創さんなんかがいて、当時、加藤典弘さんや辻信一さん、上原隆さんらが編集をやってらして、錚々たる、そんな世界でした。

当時、思想科学は、新しく段階に進むときに当たっていて、それで、何か編集サイドもいろいろ冒険してみようかという雰囲気があって、そういう中で、何かやってみたいかとか言われたのでしたが、企画力とか編集能力とか、僕には、そういった能力は全くないに等しい中で、見よう見まねで始めたということですね。


― どんなものを手掛けられました?

最初に企画したのが、「ヒューララー感覚」というもので、これは、大学で美術とかやっている中で、当時元気のいい作家のイベントか何かに顔を出しているときに、藤幡正樹さんという、コンピュータグラフィックスの方なんですけれど、その話の中に出てきたものです。

当時は、ワープロで文章を書きはじめていた頃で、そんな折、電源からコンセントが抜けてしまったときに、バックアップを取ってなかったから、それまでノートにずっと書きあげていたものが、一瞬に喪失してしまうことがありまして、そんな時は、それを誰かに訴えようにも訴えられない中で、虚無感に沈んでしまうようなことがある。

そんな、今までになかった感覚を、当時、相原コージが書いていた四コマ漫画に「隙間風」というのがあって、吹き出しで「ヒューララー」っていうのがあったんですね。本当は、「ヒュー」なのかもしれなかったのですが、手書きの文字なのでどうしても「ヒューララー」に見えてしまうっていう話ですが、何か、それを「ヒューララー」感覚と名付けているんだという話で、それは面白いなということで、取り上げてみたのです。

今はもう、パソコンでも、電源が飛んでも、バックアップは自然にされているから、たぶんそういう感覚は馴染みがないと思うんですけれど。

冬の寒い日に、温かい珈琲のみたいと思って、自販のボタンを押したら、詰めたい珈琲が出てきてしまったとか。突然、一人呆然と自動販売機の前で呆然と佇んでいるみたいな、そんな感覚は、今もありますね。


― どう料理したのですか?

取材ですね。インタビューですが、鶴見さんが、それはぜひ埴谷雄高に聞いて来いと指令がでて、埴谷さんに、この「ヒューララー」の感覚を説明した手紙を書いたんですね。

そしたら、埴谷さんから返事をくださりまして、「ヒューララー」というのは初めて聞きました、僕にとっては、虚無というのは、未だ解き明かせないことでして、そういうことには鶴見さんが明るいはずだから彼に聞いてみるのがよいのではないでしょうか、というような葉書をいただいて(笑)。今もそれは大切にありますけど。

そのときに、加藤さんから、「ヒューララー」といのは、片仮名の、何というのか、ちょっととぼけたニュアンスとして、太宰の「トカトントン」と対比できるのではないかと言われて、その時分、僕は未だ太宰を読んでいなかったので、併せて「トカトントン」を読んで、それで埴谷さんに、ヒューララーとトカトントンの違いみたいなものを考えてみてほしいといったようなことを手紙に書いた記憶があります。


― 『思想の科学』は1996年で休刊、50年続きましたね。

そこは面白い世界でもあったし、同時に、月刊誌だったので、5ヶ月くらい前から、企画がスタートして、毎月毎月、次第に、執筆者戸インタビューする人が、確約が取れていて、きちっと、紙面が埋まっていないといけなかったりするのに、結構、ぎりぎりまで埋まらなくて、何かこう、追いつめられて、凄い大変な、世界だなあと。

当時、鶴見さんや黒川さんや、すでに京都で知っていたというのがあって、また、加藤典洋さんがいろいろフォローしてくださったというのがあるんですけど、それでも、当時、僕は編集会議の中身の3分の2くらいしか理解できていなかった。


― 京都をずいぶんと歩いてきていますよね。遊び場でもあり、仕事の場所でもある。京都って、扉野さんにとって、どういうもの?

そもそも、両親が文化的な世界にいて、とくに母は、寺の世界では坊守(ぼうもり)だったんですが、四条河原町にあった書店でギャラリーの企画をしていたこともあり、そういった人々と交遊がありまして、赤瀬川源平さんの「桜画報」の展覧会をしたり、ガロ展をしたりとか、70年代頭の、まだサブカルチャーのそんなに認知されない時代に、そういった人たちが、寺によく集まったりしていましたね。

父の方は、ずっと陶芸をやっていたのですが、現在僧侶ですが、初めは、そうではなくて、仏門に入り、結婚を成就したわけで、つまり母といっしょになりたいために、母の実家である寺の門をくぐってきた。(笑)

当時は、両親は寺には住んでいなくって、伏見に一軒家を借りていたのですが、だから、父は、なんとなく、京都の市中、洛中よりも、伏見の方に、郷愁を感じるようなところがあって。

僕は僕で、その庭先に、ひたすら穴を掘っていたことがありまして。


― 何のために穴を?

何なんでしょうねえ。






― 路上に出てきたのはいつ頃ですか?

中学生の時だったんですけど、86年にできた路上観察学会というものに入ってからですね。

京都で路上観察をやるっていうんで、藤森照信さんや南伸坊さん、松田哲夫さん、林丈二さんなんかが、京都に来られて。

初日だったか、街を歩いて、写真を撮ったものをスライドでその日の夜に、寺で風呂に入った後に、上映会をやったんですけれど、白シーツに貼って、映し出して、みんなで、あーだこーだと言い合って、こんなに楽しい雰囲気というのは、初めてで。

それで、コンパクトカメラをもらったんですね。

何か、母からしてみれば、これだけの環境でのなかで、いろんな話をする中で、これもひとつの教育だと考えていたみたいで、逆に、僕は、そういったものを、大学入った頃から卒業するまでの過程で、あまりにも自分がそういう恵まれた環境に居過ぎたことに、ちょっと自問自答があって。自分で作ったものではありませんから。

ここから「京都おもしろウォッチング」という本が出ているんですけれど、今だに版を重ねているんですが、僕もその末席に名を連ねているわけなのですが、当時は本が出た時には嬉しかったのですが、大学卒業時分には重荷になっていましね。


― 作家が表出してきた文学や路上観察が今では街おこしに利用する向きがあります。

昭和30年代に出ていた「文学散歩」って結構好きで、野田宇太郎さんが始めた造語なんだと思うのですが、戦時下に始まっているんですね。

これは近代以降の文学を対象にしているんですけれど、始まった当時は、時局的には、掛け離れた行為だったと思うんですけれど、それがすごく、こう何か、心構えがすごくあったように思えますねえ。一つの文学運動であったと。


― 書誌学の発端が路上に落ちていたような。

作家の小説の舞台を訪ねるというのは、感覚としては、内側をくぐりぬけてそこに辿りついているというようなニュアンスで、場所を訪ねていくわけで、だから、行った処で、文学で街おこしをしていてもかまわないのじゃないかと思いますね。

自分の内側の景色と文学の舞台とを皮膚一枚の感覚で重ねているみたいで、その旅をした後っていうのは、文章を書きだすと、一体感があって、書く前に体が動くような、その場所に何かもっていきたいというような、そういうところから生まれてきた文章っていうのは、皮膚を通じた一体感がある。

だから、行った土地に求めていた作家の成果物、たとえば、田端雄一郎っていう作家だったら、その作家の成果というものが、実際には、空き地であったりすることはある。

本来なら石碑もあったはずなのに、それもなくたっていたりする。そのことに何か、落胆とかはなくて、空き地のままであることに、むしろ空き地のままであることの方が、いい。


― 物書きってどうしても空き地を埋めたくなるけれど、書誌学は空き地は空き地で認めていく?

文章を作って、空き地を埋めるって感じですかね。何かわからないことがあれば、わからないままそれを残しておきたい、という感覚でしょうね。





― 一方で僧侶でもありますよね。

僕が話すことが、僧侶という衣装をまとったことによって、それが、相手に割とすっと信じられてしまう部分と、何が若造がそんな話をしていいいのか、という気持ちとのなかで、身体と僧侶の衣装との境目が不明で、似合わない衣装を着ているという感じがずっと続いていましたね。

でも、それを10年、15年と続けていると、何となく皮膚化してしまったかんじがしていて、最近は、割と身軽になった、という気がします。


― 具体的に修行する?

浄土真宗って他力本願なので、特別やりません。


― 空き地を埋める作業は仏門の世界とは相いれない?

仏の世界を描くより、信仰に向かう人の生理みたいなものを考えたいとは思いますね。
だから、自分に信心があるのかどうなのかを常に自問自答していなければならない気がしています。

檀家さんの目から見れば、僧衣をまとっているだけで、深い信仰があるように見えて、いかにも浄土の世界を理解しているとみられますけれど、実際には、そうではなく、むしろそういうふうに檀家さんが自分に投影している信仰の姿に何かを感じ取って、そこから対話を持つっていうことになるんだと思います。

それが、ここ15年程の間に身に付けてきたことで、その時々に、檀家さんがこういう信仰をもっていたら、自分はそういう信仰に応えるだけのものに成りえるのかという自問自答があって、それは必ずしも全部反射できる鏡ではなくて、なんかこう反射するだけじゃなくて、通過しているものもあって。


― 物書きとしての創造性と慈悲の部分は切り離す?

だから、書くことと僧侶であることというのは、いつも、決して、一体感しないものとして、もしそれが一緒になってしまうと、どちらも駄目になってしまうような。

だから、自分がペンネーム使っていることもあるような気がします。


― 書くことは、扉野さんにとって、どういうこと

最初は、自信がなかったですね。

ある本を出したとき、両親にも献本したら、父が檀家さんに配っていて、そんなことしなくてもいいだろうにと、檀家さんに読んでもらいたいと思って書いているわけではないのに。そうしたら、その檀家さん、仏壇に供えていたんですよね。うちの人が生きていたら、さぞ喜んでいたろうにって。(笑)


― 毎日献本が供養されてた。(笑)

充実感はあるし、大学卒業した時に、路上観察のときに、街歩きしてもらえませんかとかの依頼があると、路上観察学会的な感覚というのは嫌で、思想科学での経験なんかは、僧侶の世界で直接役立つわけではなくて、大学卒業当時はそう思っていて、何か自分一人でできることは、僧侶しかないかなと思ってきて臨もうと思ったのですが。

そうすると、両親なんかは戸惑ってしまっていて、彼らは、文化的な世界と寺との世界が、境界がなくているわけで、それも含めて全部寺なんだと考えていて、いきなり僧侶の自覚をもった後継ぎが出てくると、そんなに本気で僧侶を目指さんでもええようと。(笑)


次回、穴の話でもしましょうか。

ええ。