ノベリスタ










今年2月、イスラエルの名誉ある文学賞・エルサレム賞を受賞し、その授賞式で、イスラエル軍のガザ侵攻を、持ち前の巧みな隠喩により痛烈に批判、その後刊行した5年ぶりの長編小説「1Q84」が発売1週間で約100万部という驚異的な売り上げを記録し、国内外にその作家としての特別な存在感を改めてアピールすることとなった村上春樹。

私自身は決して熱狂的な村上フリークやハルキニストなどと呼ばれる、あの種の人間ではない。

しかしそんな私でさえ、明治の漱石、鴎外と並び、平成のW村上などというキーワードで後世に語り継がれるかもしれない彼らと、時代を同じくし、リアルタイムでその作品に手を触れ、時代感を共有していることを想えば、胸が躍るというのもまた事実なのである。

さて、当サイト「WASEDABOOK」はWebを媒体とした新しいマガジンだ。そして、その拠点となっているのが早稲田という町である。

この町は村上春樹が学生時代を過ごし、彼の作品でも多く取り上げられている。今回は、そんな早稲田の町を村上春樹で文学散歩してみようと思う。


1Q84

 

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スタートは都電荒川線の早稲田駅である。

村上氏が通っていた早稲田大学の最寄り駅でもあるため、きっと彼も日頃から利用していたと思われる。新目白通り上にある小さな駅である。



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小説「ノルウェイの森」の中では、主人公・ワタナベが、この駅から都電に乗って、クラスメイト・緑の家がある大塚のあたりまで行くというエピソードがある。

彼は駅の近くの花屋で水仙の花を買うのだ。男子大学生がしゃらんと花を買い、女の子の家へ向かうなんて、いかにも村上の小説のお話である。


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村上が通っていた大学。
彼は7年かけて卒業している。

学部は第一文学部演劇科。キャンパス内の演劇博物館に通い、映画の脚本を読みふけっていたという。

当時は映画の脚本家を目指し、シナリオの執筆をしていたらしい。


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この日はアスベスト撤去工事中のため、演劇博物館は休館だったが、普段であれば、入場無料で世界各地の劇・映像の貴重な資料を目にすることができる。


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本部キャンパス正門を睨む大隈重信像。
下は、村上が過ごした文学部戸塚キャンパス。


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大学のキャンパスを後にし、早稲田駅の近くで新目白通りを渡り、小道を入っていくと神田川が流れている。

神田川を越えて、川沿いを右手へ歩くと、新江戸川公園の脇に胸突坂という、激しく急な勾配の坂道がある。



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その激坂を上り切ったところに、「ノルウェイの森」で舞台となった学生寮のモデルである和敬塾が待っている。


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正門は目白通り沿いにある。

学生たちの生活空間であるため、現在は一般人の立ち入りは禁じられているようだ。

村上自身は大学入学から半年間のあいだ、ここで暮らしていたという。

小説では、右翼的で胡散臭いという設定だったが、実際のこの寮は、やはり厳格な規則があるらしく、村上春樹は素行不良で放り出されたとインタビューで語っている。


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胸突坂側からは、静けさの中に立ちそびえる学生寮の建物を見ることができる。

建て直しで、すっかり小奇麗で近代的な外観になってはいるが、屋上へ目をやれば、小説の中にあるように、現在でも洗濯物が風に吹かれている。

その空間の醸す、なんとも奇妙なオーラは、その寮内に、あの特攻隊やワタナベの姿を想像するに難くない。



ノルウェイの森

 


和敬塾を後にし、再び胸突坂を下ってゆく。

実はこの胸突坂の途中には、面白い見所があるので紹介しておこう。

まず和敬塾の南側に隣接するのが、永青文庫という小さな美術館である。

和敬塾を含む、このあたり一帯は、旧熊本藩藩主・細川家の敷地であった。第16代当主・細川護立は、国宝保存会会長などを務め、戦前・戦後の日本の文化財保護行政に多大な貢献をし「美術の殿様」と言われた。また美術品の蒐集家としても知られていた。

永青文庫では、そんな彼のコレクション(日本・東洋の古美術品が中心)を見ることができる。

かつての武蔵野を想わせる林(この辺りにはこういった緑地帯が非常におおく残されている)の中を入っていくと白い外壁の洋館があらわれる。

これが永青文庫である。
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そして、もうすこし坂を下った左側には、俳人・松尾芭蕉が居住していたという「関口芭蕉庵」がある。

芭蕉は1677年から4年間、神田上水の工事に携わり(そんなこともしていたのか)、その間ここで生活していたそうだ。



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敷地内は植物が鬱蒼と生い茂るなか、小さな池に鯉が泳ぎ、その周囲に芭蕉や彼の弟子たちの句碑が立てられている。



4-6.JPG「古池や蛙飛びこむ水の音」4-7.JPG「道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり」4-8.JPG「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」

4-9.JPG胸突坂から早稲田界隈を見下ろす
永青文庫の入り口は胸突坂を登り切ったところにあり、芭蕉庵の門は坂の途上に小さく佇む。向かいには古代の神社が祭られ、今上天皇夫妻が成婚時に手を合わせたという銀杏の巨木が立つ。

下は、春には桜で満開となる神田川が流れている。

「引越しグラフィティ」で村上はかつての学生時代を振り返り、早稲田界隈で毎夜のごとく酔いつぶれ、タテカンで急ごしらえしたタンカに乗せられて、この胸突坂を運ばれたと語っている。

文学部キャンパスへ通うにも、飲み屋に出かけるにも、電車で遠方に出かけるにしろ、村上は、この胸突坂を起点に上下し、日常と文学の世界に旋回していたのだろう。いわばこの坂は村上春樹の出発点とも思われる。



胸突坂を下り切り、神田川沿いを左へ行くと、椿山荘の門があらわれる。椿山荘は、高低起伏のある広大な緑地に小川や池を有し、その美しい日本庭園を眺望するようにホテルや結婚式場が建てられている。

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「ノルウェイの森」のなかで、特攻隊が主人公・ワタナベに、インスタントコーヒーの空瓶に入れられた蛍をあげるというエピソードがある。

この部分は、もともと「ノルウェイの森」の元ネタである短編「螢」から直結している内容で、「ノルウェイの森」のコアな部分として、作品を象徴するシーンになっている。小説中、特攻隊はどもりながらこう言っている。

「庭にいたんだよ」
「ほら、こ、この近くのホテルで夏になると客寄せに蛍を放すだろう? あれがこっちに紛れこんできたんだよ」

彼の言う「近くのホテルの“庭”」というのが、まさにこの椿山荘なのだ。実際、椿山荘は蛍の名所として知られ、夏になると、緑豊かな庭園を蛍の光が飛び交うそうだ。

椿山荘は、実に広大な庭である。一周ぐるりと隈なく見てまわるには、それなりの体力を必要とするが、見所は随所にあり、歩めば歩むほど新しい景色を目にすることができる。

かつて国木田独歩は言った。
「武蔵野に散歩する人は、路に迷うことを苦にしてはならない」
ここは彼に倣い、ただ足の赴くまま、路を往けばよい。ただそうするだけで、あなたを満足させるものにきっと出会うだろう。




道草スポット


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樹齢約500年の御神木。


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若冲の羅漢石。洛南鳥羽某寺に在ったものを大正14年頃当荘に移築したそう。
どれも愛嬌のある表情をしている。

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この赤い橋の下あたりが蛍の見られるスポットらしい。

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椿山荘には七福神が祭られている。
こちらは毘沙門天。家門隆昌の神として家や会社、団体の繁栄をもたらしてくれる武神で、ゴルフなど各種スポーツをやる人の守護神でもある。

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この三重塔は広島県加茂郡入野のお寺にあったもので、長い間修理の手が行き届かず、上層部が大破したまま放置されていたが、大正14年、椿山荘に移築されてきた。


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こちらは布袋和尚。家内円満、交際円滑をもたらせてくれる。

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庭園の中には蕎麦屋まである。


あとがきにかえて 喫茶モズ

ほんとうはもう一箇所、村上春樹ゆかりの喫茶店を取り上げる予定だった。

「喫茶モズ」という名のその店は「羊をめぐる冒険」で、主人公・僕が亡くなった女の子と会っていた、ハードロックのかかる喫茶店のモデルだ。

当時は西早稲田1丁目4番地に、その店はあったが、後に西早稲田2丁目15番地へ移転したという情報を得て、私はその住所の場所へ向かったが、喫茶店らしきものを見つけることはできなかった。

小説中ではハードロックがかかり、とびっきり不味いコーヒーを出す店という設定だったが、「喫茶モズ」はジャズを流していたという。

コーヒーは一体どんなものを出すのだろう・・・。非常に興味をひかれながら、結局その味にありつけず残念である。
村上春樹的には、「やれやれ」といったところか。

どなたか情報をお持ちの方は、ぜひとも教えて欲しい。


羊をめぐる冒険

 

小林聡 Kobayashi Satoshi

ファブズラボ代表
阿佐ヶ谷を中心に活動するフリーランスのWebプロデューサー。
趣味は読書と自転車。好きな作家は夏目漱石、愛車はサーリー。
個人ブログ「阿佐ヶ谷日乗」も好評。