太宰治は昭和14年から23年に亡くなるまでの9年間を三鷹の街で過ごした。その間、16年から太平洋戦争がはじまり、20年に日本は敗戦した。太宰一家は妻・美知子の実家がある甲府、そして太宰の生家がある津軽へ疎開したが、戦争が終わると再び三鷹の街にもどってきた。
太宰がはじめて三鷹へ越してきたのが昭和14年。パビナール中毒や、内縁の妻との心中未遂事件で荒んでゆく太宰を見た井伏鱒二は、太宰に嫁をとらせようと考え、石原美知子との結婚話をすすめた。新たな伴侶を得た太宰は、三鷹へ住居を構え、その後はかつての作品からは想像もできない多彩な作品を発表してゆく。
きびしい時代だったが、この時期の太宰の作品はとても充実していた。徴兵されなかった太宰は、戦時下においても次々と作品を発表していった。そして、それらの作品には、これまでの彼の作品にはみられなかった生命力がみなぎっていた。
太宰の三鷹時代は、死の縁からの再生ではじまった。それは太宰の人生において、はじめて生が宿った瞬間だったのかもしれない。しかし宿命なのだろうか、結局彼が死の引力から逃れることはできなかった。昭和23年、太宰は愛人とともに玉川上水に入水し、39年間の人生に幕を閉じた。
今回は、そんな太宰の短い作家人生が凝縮された三鷹の街を、彼の作品に重ねて歩いてみた。太宰は自分の生活を作品に投影し続けてきた作家である。そんな彼の作品には三鷹の街の面影が色濃く見られる。そして、その街にも太宰の姿を感じることができるのではないか。
新年が明けて間もない冬の日、私は自宅のある阿佐ヶ谷から中央線に乗って三鷹に降り立った。
駅に着いたのが正午前。電車の扉を出て駅のホームに立つと、冷たい空気が顔をさわった。
今まで三鷹駅は乗り換えでしか利用したことがなく、改札の外へ出るのは今回がはじめてだった。
三鷹は私が予想していたよりもひらけた街だった。地上コンコースを有した大きな駅舎のなかには、たくさんの飲食店や商業施設が入っている。南口を出ると、地上2階の高さから、正面に中央通りの賑やかな往来と、左手には玉川上水と井の頭公園の木々が見渡せる。
地上へ下りると、駅の真下はバスロータリーになっていて、自動車が絶え間なく行き来する。
私は賑やかな音のする中央通りに足を進めた。まず目に入ったのが、CORALという大きなビル。三鷹市美術ギャラリーや書店、ファッション・雑貨店が入っているそうだ。その他にはファーストフード店や居酒屋などの比較的小規模の店が軒を連ねている。
太宰は当時の三鷹駅周辺の様子を『饗応夫人』のなかで、こう記している。
「この土地は、東京の郊外には違いありませんが、でも、都心から割に近くて、さいわい戦災からものがれる事が出来ましたので、都心で焼け出された人たちは、それこそ洪水のようにこの辺にはいり込み、商店街を歩いても、行き合う人の顔触れがすっかり全部変ってしまった感じでした。」(饗応夫人)
また、昭和22年5月、堤重久宛に送った手紙には「このごろの三鷹にキャバレー、映画館、マーケットなど出来、とてもハイカラで、」と書いている。
戦後の三鷹の活気が伝わってくる文章だが、太宰も現在の三鷹の発展ぶりを目にすればさぞかし驚くことだろう。
若松屋跡のすぐ近くに三鷹駅前郵便局がある。この郵便局は、太宰が住んでいた頃からこの場所にあり、太宰は原稿料の受け取りなどの際によく利用していたという。
随筆では同じ町内に住んでいた横綱・男女川を見たときのことをユーモラスに書いている。
「やはり、自転車に乗って三鷹郵便局にやって来て、窓口を間違ったり等して顔から汗をだらだら流し、にこりともせず、ただ狼狽しているのである。私はそんな男女川の姿を眺め、ああ偉いやつだといつも思う。よっぽど出来た人である。必ずや誠実な男だ。」(男女川と羽左衛門)
この郵便局のはす向いには、太宰が仕事場にしていた中鉢家跡がある。太宰は、この部屋の借主の女性が昼間、仕事に出ているときだけの約束で、部屋を提供してもらっていた。『ビヨンの妻』はここで書かれたし、随筆『朝』はこの部屋が舞台になっている。
しかし現在はマンションが建っていて、入口のところに案内板が立っているだけだ。
次の目的地は太宰の墓がある禅林寺。中央通りにもどって、南へ15分ほど歩いたところを右に曲がると参道に出る。遠くからでも立派な正門と背の高い木が見える。正門を入ってすぐ右手には、森鴎外の遺言が刻まれた石碑がある。
そう、この墓地には、明治の大文豪・森鴎外もねむっているのだ。
太宰は『花吹雪』のなかで、畏敬する鴎外の墓を訪ねたが墓碑のまえで怖じ気づき、横目でちらっと見ただけで、その場を後にしたというエピソードが書かれている。
「立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私には無い。 <中略> 私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。」(花吹雪)
太宰らしい卑屈な話だが、この文章がきっかけとなり、太宰の墓は、禅林寺の鷗外の墓の向かい側にたてられることになった。太宰のことだから、さぞ恐れ多くおもっているに違いない。太宰と鷗外は泉下でどのように顔を突き合わせているのだろうか。想像すると、ちょっと太宰が気の毒なようで、笑えてくる。
墓地はそれほど広くなく、鷗外と太宰の墓の場所を案内する看板も立てられているので迷わずにたどり着ける。私は二人の墓に手を合わせ、禅林寺を後にした。これで心置きなく三鷹の街を歩きまわれるような気がした。
次に向かうのは玉川上水。太宰終焉の地である。
禅林寺からは、住宅街をショートカットすれば近そうだが、土地勘もないので、おとなしく来た道を駅までもどり、そこから川の辺を歩いてみることにした。
駅に着くと、川沿いの道を吉祥寺方面に向かって歩いた。
この通りはきれいに整備されていて、気持ちの良い散歩道になっている。このまま歩くと井の頭公園に行ける。犬の散歩をする人や、外国人の観光客らしき人も目につく。川のまわりは緑が生い茂り、場所によっては、ほとんど水面が見えない。水深は見るからに浅そうで、水量もなさそう。
ほそく穏やかに流れる川面に、カモが3羽、窮屈そうに浮いていた。
太宰はこの川に愛人とともに身を沈め、この世を去ったわけだが、現在のこの川の様子からは、人の命を奪う力があるとはとても思えない。
しかし当時の玉川上水は今とはだいぶ様子が違ったようだ。太宰は『乞食学生』のなかで玉川上水についてこんな風に書いている。
「万助橋を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。この辺りで、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。」(乞食学生)
川沿いの道を1キロ程歩くと、その万助橋がある。橋を渡れば、もう井の頭公園に入る。
『東京八景』にも出てくるように、井の頭公園は東京の名所だった。『日の出前』『黄村先生言行録』『ヴィヨンの妻』など多くの作品に、井の頭公園の周辺が舞台となって登場する。『カチカチ山』には、娘と井の頭公園の動物園に狸を見に行ったという話も出てくる。
万助橋のあたりから公園内に入り、しばらく行ったところに松本訓導殉難碑がある。
井の頭公園を跡にした私は、玉川上水の散歩道を三鷹駅へもどる途中、左に折れ、静かな住宅街のなかを歩いた。
玉川上水から500mくらい入ったところに太宰の旧宅跡がある。とはいっても今では、一般の民家が建っているだけなのだが、その跡地の向かい側に、井心亭という、市の文化施設にもなっている和風の建物があって、その中庭には、太宰の旧宅から移植された百日紅(さるすべり)の木があるのだ。
これは『おさん』にも登場する木で、太宰はとても気に入っていたらしい。その日は、お茶会をしていて建物の中には入れなかったが、正面の通りから百日紅の木を見ることができた。
たしかに猿も滑り落ちそうな、なめらかな木肌だ。もしかしたら太宰のファンが撫でてここまで磨かれたのかもしれない。
陽もだいぶ傾いてきた。
そろそろ今日の文学散歩もクライマックスである。
私は三鷹駅の西側にある陸橋をめざして歩いた。街はほの暗くなりはじめ、吹く風はつめたかった。線路脇の道を、通る電車の音を聞きながら歩くと、陸橋が見えてきた。
鉄道愛好家だった太宰は、この陸橋に友人などを連れてよく訪れたという。この陸橋で撮られた太宰の写真がいろいろな本や雑誌で見られる。最晩年の『人間失格』では、停車場のブリッジについてこんな記述がある。
「自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。」(人間失格)
古びたコンクリートの階段を登ってゆくと、そこには夕映えの武蔵野の風景が広がっていた。この陸橋は太宰の生きていた時代と同じ姿で、今もここに現存している。錆びたフェンスが私を太宰のいたあの時代に誘う。
今日最後にして、ようやく太宰の片影を見たような気がした。
いや、太宰と自分が重なってこの風景を見ているような気がした。
太宰が『東京八景』のなかで「武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。」と書いた三鷹の夕陽を写真に収めようと、ファインダー越しに太陽をのぞくと、オレンジ色の空に、見慣れたシルエットが浮かんでいた。
富士だ。私は思わず笑ってしまう。やっぱり富士はえらいなぁ、と。